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2009年6月

2009年6月30日 (火)

新しいパラダイムに触れる

人は、自分の行動範囲や思考範囲を決めてしまう

枠のようなものを持っている。

考える内容の97%だか、それくらいは

昨日も考えていた、習慣的な内容だという。

97%が習慣になった思考であれば、

そこから出てくる行動も、おそらく習慣から

はみ出ることはないのだろう。

それが、習慣の持つ力でもあり、

成長の壁にもなりうる。

自分の枠を飛び越えて成長するためには、

新しいパラダイムに触れてみることが

効果的であったりする。

新しいパラダイムに触れることは、

いままで自分が持っていなかった思考や、

視点を得ることにつながるのだ。

自分の持っていなかった考え方に触れる。

行ったことのないところへ旅をする、

その中で自分の生き方とは異なる文化や伝統を知る。

目新しいテーマの本を読んでみる。

自分とは全然レベルの違う人と接してみる。

このような経験を持ってみることで、

新しいパラダイムに触れることができる。

今の自分の視点からは理解できない考え方だから、

今の自分の価値観とは相容れないから、

といって拒絶するだけでは、

新しいパラダイムに触れることはできない。

それはつまり、自分の認識力や価値観というものが

変わっていかないことを意味する。

ということは、自分のこころのあり方というものが

変わらないので、成長していかないということに

なりはしないだろうか。

人は、認識や価値観が変わっていくことで

成長すると、私は考えている。

そのためには、

いつも同じ考え方、いつも同じ行動、

ということだけではなく、

ときには新しいパラダイムに触れ、

刺激を受けていくことが大切なのだと思う。

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2009年6月29日 (月)

夢中になる

何かひとつのことに打ち込むとき、

時間を忘れ、寝食を忘れて夢中になることが

あるだろうか。

「夢中になる」ということは、

「効率よくこなす」ということとは

ある意味、対極に位置するのではないか。

昨日もお伝えした、

「外側からそれを見るか、

内側に入り込んで関わっていくか」

ということは、

夢中になるか、効率良くこなすか

にも当てはめることができる。

私は今の仕事に向いていないのではないか?

とか、

私には一体、どんな仕事が向いているのか?

とかいうことを考える人は多いと思う。

簡単に答えが見つかるものでもないだろうが、

外側から見ているだけでは

いつまでたっても、答えを見つけることは

できないのかもしれない。

その答えを見つけるためのヒントになるのが、

月並みな感じはするが、

「夢中になる」ということではないか。

向いているか、向いていないか。

そんなことはどちらでもいいから、

まずは今の仕事を夢中でやってみる。

冷めた目で、外側から見るのではなく、

内側に入り込む。

そして、徹底的に関わっていく。

夢中になって取り組むことで、

それが自分のやりたいことなのか、

そうでないのかが、

おぼろげながら見えてくるのではないだろうか。

これは、「効率」の視点からは

到底及ばない考えだろう。

水の中で溺れそうになっているとき、

人は岸にたどり着いて助かろうと

夢中になるものだろう。

これほどの切実な状況で、

「エネルギーにロスがないように、

効率の良い動きで、最短距離で岸にたどり着こう」

などと考える人はいない。

効率などどうでもいいことで、

まずは、どんなことをしてでも

助かろうとするだろう。

夢中になるというのは、

そんなことではないか。

われわれは、スピードを求められる世界に

身をおくことで、

何でも効率を求めるようになりがちだ。

効率を求めるのが悪いわけではないが、

それを意識しすぎるあまり、

「夢中になる」ことを忘れてしまっていないか?

あらゆることを外側から見るクセがついてしまって、

内側に入り込んで、関わっていくことを

忘れてしまっていないだろうか?

スピードを求められる時代であるからこそ、

自分のこころのあり方については

いつも気にかけて、見つめていきたいものだ。

     ***

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知ること、わかること (2009/6/28)

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2009年6月28日 (日)

知ること、わかること

知っていることと、わかるということ。

これらは、どう違うのだろうか。

昨日、ある人の話を聞いていて、

そんなことを考える機会を得た。

スポーツや楽器演奏にたとえれば、

やり方やテクニックについて知ること、

それから、実際にそれらを習得して

できるようになること。

これが、2つの状態の差と言えるだろう。

スポーツや楽器演奏以外についても、あらゆることに

当てはめられるような言い方をするとすれば、

どのように表現するのがいいだろう。

「外側からそれを見るか、

内側に入り込んで関わっていくか」

知ることとわかることは、

そんな違いだと、考えることもできる。

そのことを、どんなに詳しく知ろうとも、

外側からただ見つめているだけでは

本当の意味での理解には、到達し得ない。

そんな考えを巡らせていた折、

以前、本でさらりと読んだことのある、

この話のことを思い出した。

     ***

軽度の知的障害を持った有紀子さんは、

養護学校高等部を卒業して

地域にある作業所に通っている。

おとなしい人で、とくに問題もなく

面倒を見る周囲にとってはありがたい存在だった。

有紀子さんには両親と弟がいて、

みんなと実家暮らし。

弟は商社に勤務し、独身貴族。

父親は銀行を定年退職後、嘱託勤務。

母親は趣味に居場所を求め、忙しく出歩く毎日。

夕方、有紀子さんが作業所の勤めを終えて

帰宅しても、まだ家族はだれも帰っていない。

そんな家庭環境の中、

真面目に働いていた有紀子さんだが、

ときどき酔っ払って帰宅するようになる。

職員からの連絡で、

作業所の1日を終えてとっくに帰宅しているはずの

時刻に、自宅と反対方面へ行く電車のホームのベンチで、

カップ酒を片手に彼女がひとりでいるらしいことを、

両親は知る。

両親は有紀子さんにそのことを強く問いただすが、

黙っているだけで何も言わない。

夕方の慌ただしい駅で、

彼女はどんな気持ちで1人でいるのだろう。

職員はそのことを考え、両親に連絡を取る。

「有紀子さんがどんな気持ちでそこにいるのか、

私も一度経験してみます。」

思うところがあったのか、

それに父親が「ぜひ私も・・・」ということで同行する。

2人はある日の夕刻、

有紀子さんがしていたようにカップ酒を片手に、

駅のベンチに座ってみる。

大きな買い物袋を提げた人。

塾へ急ぐ中学生。

保育園にお迎えに行く若い父親。

誰もが、自らの目的に向かって急ぎ足。

その雑踏の真ん中に、

ポツンと座って夕陽に照らされているのは、

とても、とても、孤独なものだった。。

「有紀子が家に帰っても、

誰もいないんですよね・・・。」

父親はつぶやく。

―『家族の練習問題~木陰の物語~』(団士郎著)
 ホンブロック/2006年1月

     ***

内側に入り込み、そのことに関わってみる。

そのことで、本当の理解が得られる。

外側から見ているだけで済ませてしまう。

今の世の中は、そんなことであふれかえっている。

あらゆることを、外側から見るだけで

それ以上内側へ入って行こうとしない。

ものごとを、効率重視で見ていると、

どうしてもそのような振る舞いかたになってしまうのだ。

自分の接している世界を、

もっともっと自分のこととして関わっていく。

そんなことが、心を豊かにしていくのではないだろうか。

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2009年6月27日 (土)

「want」がハードルを取り除く

休日の朝、こんな早起きをするのは

久し振りかもしれない。

実はここ最近、休日の生活習慣の乱れが

少々気になっていたのだ。

このようなことも、習慣というものの力。

悪い方へも、引きよせの法則が働く。

今朝は6:00前に起き、久しぶりにジョギング。

2か月ほど前にフットサルで足を故障して以来、

走るのを控えてきた。

昨日あたりから、どうしても走りたいという衝動が

あって、今朝は自然と早めに目を覚ますことができた。

人が何かに取り組むとき、

その気持ちが「want」から来ているのか、

「must」や「should」から来ているのか、

その違いは大きいものだ。

「want」の気持ちで取り組むこと。

これがやはり、一番成果が出やすいものだ。

成果が出るとか、出ないとか、

それすらさほど意味をなさないかもしれない。

それが「want」の気持ちで取り組むということ。

もしも、昨日の記事で書いたような、

「高い山を乗り越える力」というものを、

「want」の気持ちで持てたとしたら。。

それは、とてつもなく大きな力になるのではないか。

ここ数年、早起きを続けている私にとって、

朝起きのハードルは全然高いものには感じない。

が、しかし、一般にはやはり、ハードルが高いと

感じている人が多いようだ。

私の感覚でいえば、9:00ギリギリに出社するために

通勤ラッシュにもまれているほうが、

よほど苦行だと思うのだが。。

このように、人にとってハードルの高いことを、

軽々と飛び越えられるような、そんな世界を作り上げる

ことができれば、

人にはなかなかマネのできない世界に

入っていくことも、そう難しいことではないのではないか。

そんなふうに思うのである。

そして、そのハードルは、継続して跳び続ければ

跳び続けるほど、軽々と超えることができるようになる。

それは逆に、他の人にとって障壁を高めることに

つながっているのだ。

越中富山の薬売りの言うことは、そのようなこと。

山が厳しく高いほど、乗り越えてくる人は

少なくなってくる。

そして、自分自身は、どんなに厳しくとも

乗り越えるだけの覚悟と、力を持っている。

だから、結果を出すのはラクなのだ。

少々面倒なこと、それだけで人は高い壁を感じているが、

自分はそれを軽々と乗り越えてみよう。

そして、それを自身の「want」になるまで続けてみよう。

そんな思いと覚悟が、

気持ちをラクにしてくれるように思えるのだ。

なんだか全然まとまりのない話になったが、

ちょっと感じたことを気の向くままに綴ってみた。

     ***

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山が高ければ、商売はラク (2009/6/26)

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2009年6月26日 (金)

山が高ければ、商売はラク

横並びの発想で人と同じことをするのは、

ラクなようでいて案外しんどいもの。

自分の考え、自分のペースで

物事を運ぶことが難しくなるからだ。

たとえば、休日にレジャー施設へ足を運ぶと、

誰もが同じ発想で来ているから、

せっかく楽しみにしていても楽しめず、

疲れるだけで終わってしまう。

人と同じだと、好む好まざるにかかわらず、

そこには競争が生まれる。

周囲の競争意識に巻き込まれる。

通勤ラッシュの中にあっては、

自分は心を落ち着けて、のんびりと

移動しようとしていても、

周囲は殺気だっていて、電車から降りること1つ

とっても、いかに先に扉の向こうへ到達するかが

争われることになる。

乗り換えのホーム移動でも、

階段やエスカレータでは我れ先に、とばかりに

押し合いが繰り広げられる。

周囲がそんなことだと、

自分がいくら落ち着いていようとも

巻き添えを食らうことになりかねない。

これが、あと1時間早いとどうなるか。

完全に自分のペースである。

周囲との競争などないし、

そんなことに意識を傾けて自分の時間を

失う必要もない。

その時間は、悠々自適な

「自分の時間」とすることができるのだ。

平日をねらってレジャーを楽しむというのも

同じ発想で、自分の時間、家族の時間を

充実したものにできる。

仕事においても商売においても

同じことは言えるもので、

人が面倒くさがってやらないことほど、

力を注いでていねいにやってみる。

人が困難に感じることに、

敢えて自分はチャレンジしてみる。

そんな考え方が結果的に、

自分の考え方で、自分のペースで、

主体的に仕事を進めることに

つながっていくのではないか。

そのように思えるのだ。

越中富山の薬売りによる次のことばが、

私のそんな思いを強くしてくれる。

     ***

越中富山の薬売りには、並々ならぬ頑固さがある。

商才に長けた近江商人が、

その頑固さにあきれながら次のように問う。

「あの高い山を越えて全国に薬を売り歩くのは

大変でしょう」

越中富山の薬売りはこう答えた。

「いいえ、あの山がもっと高ければ、

商売はもっとラクです」

     ***

難しいから、面倒だからと

そのことから逃げるばかりではなく、

一度正面から向き合ってみるのも、

いいかもしれない。

人も同じように、難しい、面倒くさいと

感じているならば、

そこには大きなチャンスがあるのだ。

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2009年6月25日 (木)

実践とトレーニング

昨日の記事では、

「包丁の刃を研ぐこと」と「料理を作ること」を

例に出して、

成果を出すための能力を磨くことと

実際に成果を出す行動を起こすことに、

バランスよく取り組むことが大切だということを

書いた。

「実践」と「トレーニング」の関係にも

似たようなことが言える。

実践とは、たとえばスポーツ選手にとっての

試合のようなもの。

実践そのものが、経験を積んだり

集中力を鍛えたりといった、

トレーニングになる面もあるが、

基本的には、実践を繰り返すのみでは

パフォーマンスに限界があると考えられる。

実践において結果を出すために、

普通はその下積みとしてのトレーニングが

必要になる。

実践だけでは、成果を出すための

パフォーマンスが上がらなくなるし、

トレーニングに専念していても

成果が上がることはない。

要は、どちらも大切だということ。

以前の記事でも書いたことがあるが、

仕事の現場で実践的な技術を習得するのと、

プライベートの時間を使って本質的な勉強をする

ということも、やはりどちらも欠かせない

大切な要素だ。

私たちの日ごろの取り組みには果たして、

「実践」的なことと、

「トレーニング」にあたることが、

どれくらいの割合で入っているだろうか?

     ***

関連記事:

包丁の刃を研ぎ、調理をする (2009/6/24)

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2009年6月24日 (水)

包丁の刃を研ぎ、調理をする

何ごとにおいても、

成果を出し続けるためには欠かせない、

大切な考え方がある。

それは、次の2つにバランスよく取り組むことだ。

1つは、

成果を出すために必要な能力を磨くこと。

そしてもう1つは、

成果を出す取り組みをすること。

仕事においても趣味においても、

ひとつのことに真剣に取り組み、成果を出し続けたいなら

どちらも欠くことはできない。

たとえば料理づくりで成果を出し続けたいなら、

包丁の刃を研ぐことが必要だ。

ただひたすら料理をつくり続けていると、

最初のうちはうまくできていても

やがて、包丁の刃が切れなくなり、

思うような成果が出せなくなるときがくる。

かといって、ひたすら刃を研ぎ続けるだけで、

調理の経験を積まなければ、やはり成果は出せない。

そう考えるとわれわれは、

限られた自分の持ち時間の中でも

どちらかに偏ることなく、それら2つの取り組みを

バランスよく配することに意識を傾けるべきではないか。

そのことを、強く感じている。

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2009年6月23日 (火)

ちょっとした工夫を続ける

仕事というのは、ほんのちょっとの工夫を

絶えず続けることで、その完成度が上がっていく。

雑事だからとおろそかにせず、

ちょっとしたことでも問題意識を持ち、

取るに足らないようなことでも改善に力を尽くす。

そんなことの積み重ねによってのみ、

仕事は磨かれていくのではないか。

そんな教訓を得られる文章を

引用してみたい。

昨日に引き続き、スマイルズの『自助論』より。

     ***

あるとき、ミケランジェロのアトリエに

友人が訪ねてきた。

ミケランジェロは彫刻の1つを指さしながら、

友人が以前に訪問して以来どの部分に

手を入れたかをこと細かに説明しはじめた。

「ここのところは手直ししました。

あの部分もみがきこんだのです。

この線は前より柔らかくして、そっちの筋肉も

浮き立たせるように工夫しました。

唇にもいくぶんか表情を与え、

手足にはさらに力感を添えたのです」

「そういうこまごました問題は、

私にはさほど重要とは思えませんが・・・」

と友人が首をかしげると、

ミケランジェロはこう答えた。

「確かに、細かい修正など取るに足りない

問題かもしれません。しかし、そのようなことが

積み重なって美は完成します。

つまり美の完成にとっては、どんなにささいな

問題でも重要な意味を持つのです」

     ***

自分の手がける仕事を

本当の意味でモノにするには、

外側からそれを眺めるとか

表面をなぞるだけというレベルにとどまらず、

そのものと一体になることが必要なのかもしれない。

あなたの仕事を磨きあげるために、

今日もほんのちょっとした工夫を!

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2009年6月22日 (月)

劣等生列伝

スマイルズの名著『自助論』のなかで、

「劣等生列伝」というタイトルで、

少年時代は名だたる劣等生でいながら

聡明な大人に成長したといわれる人物が

紹介されている。

学生時代のニュートンは、ビリから2番目の

成績だったそうだ。

ある時、自分より頭の良い生徒にけとばされ、

果敢にもその生徒にケンカを挑む。

これをやっつけてしまったときから、

ニュートンは、ケンカだけでなく学業面でも

その相手に勝つことを決心し、猛然と勉強しはじめた。

そして、ついにはクラスのトップに躍り出たのだ。

ナポレオンについても、

体だけは丈夫だったが、それ以外は他の生徒と

変わらず、目立たない少年だったという。

これらの話は、才能だけで成功する人は

いないということを表しているのではないか。

後年成功して有名になった人ほど、

その少年時代は人より劣っていると

言われることが多い。

成功者のイメージがあるから、

なおさら少年時代のダメさが強調されるという

面はあるかもしれない。

しかし、少年時代からのちの成功時代までの

間には気の遠くなるような努力の積み重ねが

あることは間違いない。

結局は、地道な努力が最後には勝つのだ。

この劣等生列伝は、そのことを言っているのでは

ないだろうか。

この劣等生列伝を読むと、私も勇気が出てくる。

大した才能はないかもしれないが、

頭の回転も鈍くて、どんくさいかもしれないが、

ひとつのことをコツコツと地道に続けていくこと

くらいなら、できるのではないか。

そうしたら、昨日の自分よりも

少しくらいは良くなるのではないか。

そんなふうに、前向きに考えられるようになるようだ。

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2009年6月21日 (日)

問題についての認識

業務報告などを受けるときによく、

「問題なし」ということばを目にする。

問題なしとは、どういうことだろう。

なすべきことが、過不足なくできた。

その仕事で、想定したとおりの成果が出た。

だから問題ない、ということだろうか。

問題があるということは、

悪いことのように思われるのだろうが、

果たしてそうだろうか?

「問題」というのは、

悪いことなのか?

解いていくべきものであって、

決して悪いことではない。

これが私の認識だ。

もちろん、

問題があってうれしいわけではない。

重い問題にぶつかったならば、

それで苦しい思いをすることもある。

でも、なくて良いものでもない。

問題というのは、

それを解いていくことで成長できるものだ。

だから、問題はいつもそこにあるべき

なのかもしれない。

自分が成長していくためには、

解くべき問題が必要なのだ。

これは、ハードルのようなもので、

なければ超えようとは思わないのだ。

ハードルがあるからこそ、

それに引っかからないように

高く跳びながら、走る。

何もなければ、

跳ばないといけないという意識すらなく、

ただ漫然と、走るだけになりかねない。

目の前にある、ひとつの問題をクリアする。

そうすると、また次の問題が現れる。

そして、次はもっと努力をしなければ

簡単にはクリアできない問題がやってくる。

いままでと同じやり方で、同じ力加減で、

クリアできる問題は、やってこない。

また、全然歯が立たないような難しい問題も、

やはり、やってこない。

精一杯の努力を積み重ねて、

ようやく乗り越えられるくらいの、

自分の力にちょうどいい大きさの問題が

やってくるのだ。

問題を乗り越えることで、

人は成長していくのだ。

だから、問題からは逃げてはいけない。

難しいのは当たり前。

難しいから自分にとって問題なのだ。

クリアしないといけないものだから、

自分にとって問題なのだ。

逃げても逃げ切れないのが、

自分の目の前にある問題。

正面からぶつかってクリアしないと、

クリアできるだけの力がつかないから。

だから逃げると、

また同じ問題に遭遇することになる。

そして、問題というのは、

どこまでいっても、なくならないものだ。

自分自身が成長している間は、

常に問題と向き合うことになる。

クリアすればするほど、

問題のレベルはだんだんとアップしていく。

どこまでいっても、問題というものは

なくならないものだ。

そう考えると、問題というものは

自分が成長するために必要不可欠なものと

考えることができるだろう。

問題がないということは、

成長が止まっていることになる。

成長し続けるためには常に、

問題と向き合い続けるということが

必要だということだろう。

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使命

自分のしている仕事の使命について

考えたことがあるだろうか?

逆に考えると、誰が、どのような成果を、

自分の仕事に期待しているのか。

そのことを考えると、

自分のしている仕事について

少しは理解できるのではないか。

公共の交通手段で運転することを

仕事にしていれば、その人は

運転することにベストを尽くさなければ

ならない。

料理を提供するシェフであれば、

最高の料理を提供することに、

ベストを尽くさなければならない。

私の仕事において、

私がベストを尽くさなければならないことは

何だろうか?

私は、そのことに

ベストを尽くしているだろうか。

ベストを尽くしているかどうか。

それが、その仕事をやっていくための

資格があるかどうかではないか?

利用する側の立場になると、

ベストを尽くすことは当然のこと。

ベストを尽くさないことの方が

おかしいと、映る。

自分の仕事ぶりというものが、

はたから見て、

価値あるものに映るかどうか?

そんな視点で、自分の仕事ぶりを

振り返ってみることも、

時には大切なことではないだろうか。

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2009年6月19日 (金)

ことばはこころをつくる

普段何気なく口にすることばが、

こころに大きく影響することがある。

成功法則を書いた本などを読んでいると、

よく、意識的に「前向きなことばを口にする」

ということが書かれている。

あれは、口にすることばが実際に

こころに大きな影響を与えるからだろう。

実際、こころに、ある感情が湧きおこり、

その感情にまかせて思いを口にすると、

そのことばの響きが思いのほか

自分自身の感情にフィードバックを与え、

その感情が増幅されることがある。

たとえば、怒りの感情が湧きおこる。

そのとき、独り言でも何でもいいのだが、

怒りにまかせて口汚いことばを吐くとする。

そうすると、そのことばの力強さに、

自分の感情がさらに影響を受ける。

結果、怒りの感情が増幅されることになる。

その増幅された感情が、

自らの潜在意識の中に蓄積され、

こころを形成していく。

私は、こころを形成するプロセスに

そんなイメージを持っている。

不幸を引き寄せるような、

マイナスのこころを持っていたとしたら、

そのこころを通して、自分の外の世界を

見ることになる。

そうすると、そのこころを通して見たものからは

マイナスの感情が起こってきやすい。

マイナスの感情からはマイナスのことばや、

行動が出てきやすい。

そんなことばや、行動の結果が

さらにマイナス感情を増幅する。

そして、そんなマイナス感情が、

マイナスのこころを補強する。。

このような循環が出来上がり、

マイナスのこころは、不幸を引き寄せることになる。

マイナス面を例にしたが、

プラスの感情にしても同じことだろう。

こうして、自らのこころから感情を呼び起こし、

感情がことばや行動を起こし、

ことばや行動が感情にフィードバックを与える。

そして、その感情がこころに反映する。

そのこころは、また次の感情を呼び起こす。

そんな循環になっていると思うのだ。

だから、口にすることばは、

自らのこころを育てていることになる。

だから、口にすることばを意識的に変えることで、

こころを変えるのだ。

すべての認識というものは、

こころが作り出していると言える。

そのこころを、実は自ら口にすることばが

育てているのだとしたら。。

われわれは、もっともっと、

普段の言動に注意する必要が

あるのかもしれない。

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あせらず入念に

何かにつけてスピードが求められる昨今。

時間をかけすぎず、100点満点を狙わず、

80%くらいの成果を出すつもりで仕事に取り組む

発想が必要なこともある。

これは、求められる成果に対して、

必要以上にコストをかけないという発想だ。

同じようにスピードを意識するとしても、

成果をあせってショートカットを狙う、

つまり、必要なことを飛ばす発想というのは

また別なので注意をしたい。

物事を継続することについての記事を

先日から続けているが、

「量の積み重ね」として効果がある継続のしかた

というのは、やはり「入念に行う」ということだ。

「いい加減でもいいから継続を」というのは、

あくまで継続することにフォーカスした発想であって、

可能であれば1回1回をていねいに

やるに越したことはないのだ。

習慣化のハードルをできるだけ下げるために

「いい加減でもいいから・・・」と考えるわけで、

常にいい加減なやり方をしていると、

やはり「積み重ね」としての効果は出てこない。

あせると、入念に行うということができなくなる。

なぜあせるのか?

それは、必要な積み重ねを飛ばして

成果を出したいという、そんな思いが隠れているから

かもしれない。

質を上げるために必要な積み重ねの量は

人それぞれ。

必要なことを飛ばして、質を上げることはできない。

成果が出るまで量を積み重ねるのみ。

あせらずに、1回1回を入念にやっていこう。

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2009年6月17日 (水)

「ガンバッテル」感

やっていること一つひとつを見ていると、

すごくがんばっているはずなのに、

あまりがんばっている感じのしない人がいる。

そういう人は、ストイックな姿勢で取り組んでいるようで、

実は本人にとっては全然苦になっていないもの。

はたから見える努力を、本人は全然、努力と思っていない。

ものすごくバイタリティあふれる感じなのに、

「ガンバッテル」感はあまりない。

これはやはり、その人のそういった行動が

「習慣化」「無意識化」されて定着しているということだろう。

他人の目から見て「すごい努力」と思うことを、

本人は何の苦もなく、楽しんでやっているのだから

かなわない。

何かに打ち込むなら、どうせやるなら、

この域まで達したいものだ。

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2009年6月16日 (火)

やる気エンジンを温める

圧倒的な量の積み重ねをするためには、

その取り組みをいかにして習慣化するか

これがポイントになる。

ものごとを継続して3週間すると、そのことは

習慣として身につくといわれる。

問題は、そのときまで「やる気」が続いているか。

ものごとは、はじめてしばらくは思うように

成果が出せないもの。

思うような成果が出ていなくても、最初のころは

やる気でカバーすることができる。

しかし、1週間、2週間となってくると、

やり始めたころの刺激や新鮮さも薄れてきて、

しかも、相変わらず成果は目に見えない。

これを乗り越えてはじめて、習慣として根付く。

ここをいかに乗り越えるかが、工夫のしどころだ。

そのためのヒントとして使いたいのが、

「やる気エンジン」だ。

作業興奮といわれるもので、

いくらやる気にならなくても、その気分を無視して

とりあえず始めてみると、

いつの間にかいやな気分はなくなっていて、

集中できていたりする。

これを利用するのだ。

ただし、その取り組みがあまりに大きい、

プレッシャーに押しつぶされそうなくらいの

課題だとしたら、「やる気エンジン」を温めることが

できないので注意が必要だ。

課題が大きすぎてやる気が続かないのだとしたら、

まずは、課題を小さくして「やる気エンジン」を

温めることから始めるべきだろう。

やる気エンジンをうまく使うためには、

ひとまず気分や感情は無視してしまうのがコツだ。

気分や感情に影響されてしまうと、

やる気エンジンを始動させるためのきっかけを

そもそも失ってしまうからだ。

ものごとを続けるためには、

初動に必要なパワーがちょっと大きいが、

そこさえ乗り切れれば、続けることは苦ではなくなる。

習慣として身につけることにさえ成功すれば、

あとは成果が出るのを待つだけだ。

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2009年6月15日 (月)

圧倒的な量の積み重ねが自信になる

いい加減でも良いから継続を優先する。

そうすればいつの間にか、なにものかになっている。

自分では意識していなかったが、

気づけばそれなりに上達していたりする。

先日からそのようなことを、

私自身の経験も交えて繰り返し書いている。

実際、細々としたペースでも、いい加減な継続でも、

続けているというそのこと自体がもたらす成果は、

あなどれないものだ。

そのようないい加減な継続であっても、

長年にわたって継続してきたことであれば、

やはり圧倒的な量の積み重ねを

いつの間にかしていることになる。

これは大きな自信になるものだ。

効率化の観点からすれば、

一見ムダのようにも見えるやり方かもしれない。

しかし、効率化の世界では決して得られない、

豊かな土壌がはぐくまれる。

それが、圧倒的な量を積み重ねた世界ではないか。

効率よくものごとをこなすことも、

時には重要なことかもしれないが、

効率だけを重視することで、

ひきかえに何か大切なものを失う。。

そんな視点も持っておきたいものだ。

     ***

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レベルの落ちない世界 (2009/6/3)

水面に出る (2009/6/2)

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続けることの強み

バンドのメンバーと話していると、

「楽器の練習がんばっても、

昔ほど伸び幅がないよね」

そんな話になる。

今日も、練習を終えてから少しそんな話が出た。

それでも。。

と思う。

それでも、少しくらい楽器に触れていなくても、

練習も全然していなくても、

以前できたことができなくなった。。

などということはなくなったのではないか?

そんな問いかけをメンバーにしてみたところ、

みんなそれぞれに納得していた。

やはり、自分の楽器をモノにするために、

それなりにみんな、練習量を積み重ねてきたのだろう。

「これ以上は落ちない」

と言えるだけの、プレイの質がある。

1か月や2か月、忙しくて楽器に触れていなくても、

久し振りにプレイするとすぐに、勘が戻ってくる。

そんな世界があるのだろう。

そんな意味では、ある一定のレベルは

クリアしているのかもしれない。

この感覚は、超えてみて初めて

わかることなのかもしれない。

どんなにいい加減でも、

とにかく続けていることが

大切なのだということを、改めて感じる。

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2009年6月14日 (日)

できて当たり前のことに力を注ぐ

本日は職場のフットサルサークルに参加。

私と比べたら、圧倒的に若いメンバーと一緒に

プレイをしている。

この、フットサルに参加していても、

あと、バンドの練習に参加していてもよく感じることが

ある。

それは、出来て当たり前の簡単なプレイであっても、

どんな状況に置かれていても、

常に安定した結果を出すのは、

案外難しいということ。

つまり、ごくごく基本的な、簡単なプレイであっても、

どんな状況にあってもできるか?

と問われると怪しいものだ、ということ。

フットサルのゲームの中で、パスやシュートをするたび、

そこで失敗するたびに、そのことを痛切に感じる。

「今のシュートは外したけれど、

オレも本気でやれば、あれくらい決められるよ」

そんな意識が見え隠れしているかもしれない。

「それなら、決めろよ。」

「本気でやってみろよ!」

そんな声が、自分の心の奥から聞こえてくるようだ。

結局、いくら簡単なプレイであっても、

ミスをしているうちは、それが自分の実力であって、

モノにはなっていないということ。

プレイのレベルには、確かに波がある。

その波の一番底にフレるところが

自分の真の実力だと、

そのように考えるのが妥当なのだと思う。

ちょっと状況が厳しくなると、すぐに上手くいかなくなる

そんなことでは、本当にそのテクニックをモノにしたとは

言えないのではないか。

そんなふうに感じている。

バンドで練習していても同じ。

普段なんなくこなすようなプレイでも、

何度か繰り返しやっていると、思わずミスを

してしまうことがある。

また、ライブなどの緊張する場面においては、

普段ならなんなくできるプレイなのに、

手が動かなくなって、ミスをしてしまうことがある。

でも本当は、そんなシビアなシチュエーションであっても、

それでもいつもと変わりなく淡々とプレイできる。

緊張する場面であっても普段通りにプレイできる、

それが自分に備わった、本当の力と言えるのではないだろうか。

どんなに緊迫した場面であっても、

自分のできることを、いつもどおりにこなす。

そんなことが自然にできるよう、

普段からもっと、当たり前にできることに

力を注いでいきたいと感じた、

今日のフットサルだった。

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2009年6月12日 (金)

地図ができるまで続ける

先日、本質を知るための勉強というテーマで

記事を書いた。

本質というものは、

目の前の仕事をひたすらこなしていても

なかなか見えるものではない。

だから、仕事に集中する時間とは別のところで、

また少し違った視点で、

できれば大局的な視点を持って

勉強していきたいものだ。

そして、1日や2日の勉強で急に

視界が開けるものでもない、ということだ。

だから、本質を学ぶためにはやはり、

継続的な学びの時間が必要なのだ。

継続的に学んでいると、

そのことについて自分の頭の中に

「地図」ができあがってくる。

今まで断片的な知識だったものが、

どんどんと、つながり始めるのだ。

そうなってくるとやっていて楽しくなる。

そして、そこから先は

急激に理解が深まることになる。

地図ができてしまえば、

道に迷うことも少なくなってくるだろう。

そこから先の学び方は

とてもパフォーマンスがよくなるだろう。

だから、

ひとつのことを学び始めたら、

そのことについての全体地図が

頭に浮かぶレベルまでは継続したい。

     ***

関連記事:

●2009年6月9日(火) 現象に振り回されない

●2009年6月8日(月) 本質を知るための勉強

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2009年6月11日 (木)

念入りな準備が気持ちを楽にする

昨日に続き、

悲観的な視点での準備について

書いていきます。

悲観的な視点で、あらゆるケースを事前に

想定しておく。

そして、そのことが現実に起きたときには

どのように対処すべきか、

その対処内容まであらかじめ検討しておく。

そのような考え方で仕事の段取りを

考えておくと、

実際にその仕事を進めていく中で、

想定していなかった事象というのは

当然ながら起こりにくくなる。

仕事を依頼していた相手が、作業をやり忘れていたり、

急に忙しくなってできなくなったりしていないか。。

そのような事態を想定しておくから、

納期よりも余裕のあるうちに状況を確認しておくとか、

ポイントポイントで進捗を知らせてもらうとか、

そんなふうに手を打つことができる。

悲観的な視点で、考えられるあらゆる事態について

想像しておくからこそ、

何が起きても何とかなる、という自信ができる。

悲観的になって、あらゆる事態に備えた対応を

決めておくからこそ、

準備を終えた段階では、逆に楽観的になれる。

念入りに準備をしたというその事実が、

気持ちを楽にしてくれるのだ。

これから取り掛かろうとしている仕事に対して、

漠然とした不安、「何が?」と聞かれると

的確に答えられないような心配、

そんなものを心に溜め込んでいないだろうか。

もし、そのようなものが心にあるのならば、

思い切って悲観的な想像をたくましくし、

それらに対する対応方法を一つひとつ

じっくり考えてみよう。

漠然とした不安としっかり向き合うことで、

気持ちが楽になるし、自信も出てくるのだ。

それは、

「何とかなるだろう」

という根拠のない楽観主義とも違えば、

「何も問題は起こらないよ、たぶん」

という漠然とした希望的観測でもないのだ。

     ***

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●2009年6月10日(水) 悲観的な視点で準備する

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2009年6月10日 (水)

悲観的な視点で準備する

今朝は、仕事の段取りについて

「悲観的な視点で準備する」というテーマで

書いてみたい。

仕事を効率的に進めるために、

段取りの時間を取ることは大切だと

普段よく私は話している。

段取りというのはとてもクリエイティブな、

考える仕事。

これさえきっちりやっておけば、

残りの仕事はいわゆる「ワーク」、

作業と呼ぶべき内容だけになる。

つまり、段取りに頭と時間を使えば、

あとは考えなくてもよい作業だけが残る。

これは、仕事の進め方としては

理想的ではないかと考えて、

私は仕事の中で段取りの話をよくする。

しかし、人の段取りを見ていて感じるのは、

「希望的観測」によって仕事を組み立てる人が

多いな、ということ。

「その仕事、どんな段取りですすめるの?」

そう聞いてみると、

「おそらく、ここでこうなって・・・」

「ここで問題なくいけば・・・」

のようなシミュレーションをしているのに

ときどき出会う。

そこで、想定していなかった問題が発生したら?

ということに想像を働かせていないケースは

案外多い。

希望的観測に基づいて段取りをしていると、

あまり考えなくて済むので楽かもしれない。

しかし、不安が拭い去れなかったり、

自分でデザインした仕事の進め方に

自信が持てなかったり、

するのではないだろうか。

その意味で、

仕事の段取りを考えるとき、まずは

悲観的な視点を持って準備することを

おすすめしたい。

悲観的な視点を持っていると、

仕事の手順を考えているあらゆる段階で、

「ここでもし、上手くいかなかったら・・・」

とか、

「依頼していた相手が、作業をやり忘れていたら・・・」

とか、

「1日がかりで作った資料が、パソコンのトラブルで

消えてしまったら・・・」

とか、

いろんな想定外の事態を想像することができる。

そのような、考えられるだけの悲観的な想像を

事前にしておくことで、

それらが現実に起こったときの対処ができるのだ。

明日も続けます。

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2009年6月 9日 (火)

現象に振り回されない

昨日の記事では、

実践をとおして仕事を体で覚えるだけでなく

その仕事の本質を知るための勉強を

すべきだと書いた。

これに関連してもう少し。

たとえば、私が身を置いているIT業界では、

技術がまだ成熟しきっていないため、

日進月歩で目まぐるしく変化している。

現場の仕事をこなしていくためには、

それらの技術を習得して

結果を出していく必要がある。

そのためには

仕事の現場で手を動かしながら

学んでいくだけでは足りず、

その技術をマスターするために

自分の時間を投資することも

必要だろう。

しかし、この時間の投資のしかたにも

注意が必要で、

ともすると、日進月歩の個別技術だけに

フォーカスされることになりやすい。

仕事で成果を出すために

それはそれで必要なことであるとは思うが、

技術を習得するための勉強といっても

それら個別技術の勉強だけに終始するのでは

いけない。

それをしていると、

「個別の技術」という、その瞬間だけを切り取った

ともいえるような、現象に振り回されることになる。

そこで、そもそも、

その技術の本質とは一体なにか。

どのようなニーズを背景に生まれてきたものか。

今後どこへ向かって、それは変化していくのか。

そのような本質の勉強をしておくことが

大切になってくる。

その技術を抽象化して理解するといでもいうか、

個別の事情を排した、共通的な部分、

変わらない考え方を学ぶ。

そんな勉強をしておくことで、

自分の中に軸が出来上がるだろう。

軸ができていると、

同じように個別の技術を学ぶにしても

効率よく学ぶことができる。

本質的なところに目を向け、学んでおくことで、

自分の中に強固な軸ができてきて、

ものごとに対する認識力も高まっていく。

そんな風に感じている。

     ***

関連記事:

●2009年6月8日(月) 本質を知るための勉強

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2009年6月 8日 (月)

本質を知るための勉強

今日はあまり時間もとれないので、短めで、

ちょっと思いついたところを書いてみたい。

仕事ができるようになるためには、

実際に仕事をしてみなければならない。

まあ、当たり前のことではある。

スキルアップのための勉強をする人は多いが、

勉強したことを実際に生かせているだろうか。

勉強して学んだことは、

それを仕事で使ってみても

すぐにうまくいくとは限らない。

勉強でいくら知識を詰め込んでも、

現場の仕事ではなかなか、机上の勉強のようには

いかず、失敗し、気づきを得、

さらに別の方法を試したり、

失敗したやり方を改善したりして

何度もチャレンジする。

そうしてようやく、その仕事は体得できる。

勉強だけで本当の理解まで到達できるのではない。

実践なしに本当の理解は得られない。

逆に、現場の仕事をひたすら積み上げている

それだけだと、その仕事の本質を理解するのに

時間がかかると思う。

実際に手を動かして、結果を出しているが、

その結果はいったいどんな意味があるのか?

ただ覚えたまま、ひたすらやるのではなく、

その仕事に関わる技術や知識を体系的に

学んでみる。

つまり、本質を知るための勉強をしてみるのだ。

それをすることで、

同じ仕事をするにしても

やり方が変わってきたり、

出せる成果も変わってきたり、

何よりも、その仕事に対する見方が

変わってくるかもしれない。

今までとは見える景色が変わってくる。

ただ実践だけを積んでいれば

良いというわけでもないし、

勉強だけをしていれば良いわけでもない。

コミュニケーションについて学べば、

その本質を理解することはできるかもしれない。

しかし、実際にその学びを生かして、

コミュニケーションを実践しなければならない。

そして、失敗して、反省して、

改善ポイントを見つけ出す。

そのフィードバックを、次の実践に反映させる。

そうやって、知識を学ぶ→実践する→振り返る

→改善点を見つける→さらに実践する→・・・

このサイクルを回していくことが、大切なのだ。

このサイクルをより効果的に回していくためにも、

「本質を知るための勉強」をすることだ。

最近の自分自身を振り返ってみて、

「本質を知るための勉強」がちょっと不足しているな、

そのように感じたので、

今日はテーマとして取り上げ、

思うところを書いてみました。

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2009年6月 7日 (日)

酒は習慣化の敵!?

昨日はバンドのメンバーで飲み会、

一昨日は職場の飲み会が。

久し振りに飲む機会。

私はここ最近1年以上もの間、酒をほとんど

飲まなかったのだが、

これが、ものごとを習慣づけることに

とても役立っていたことに気づいた。

一昨日、昨日と2日間の飲み会で、

2週間ほど続けていた、毎日の筋トレが

あえなく途切れる。。

また振り出しに戻ってしまった。

まあ、これに懲りることなく、

また続けていこうとは思うが、

それでも、昨日は

酒が、ものごとを継続する力を断ち切るのに

いかに強力であるかを、思い知った。

考えてみれば、

朝早く起きることにしても、

夜、ランニングを続けることにしても、

酒を飲んだ状態で実行するのは

難しいものだ。

毎日のように酒を飲む習慣のある人は、

特に要注意。

なにか、ものごとを習慣づけるためには、

続くための環境づくりというのも大切だ。

その環境づくりで気を使いたいことのひとつ、

それが、うまく酒と付き合っていくこと。

そんなことを、猛烈な反省の中で感じた、

そんな週末であった。

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やめないこと

きょうは午後から、バンドのスタジオ練習。

メインでやっているのとは別の、

ゆっくりペースで長期間活動を続けるバンドだ。

練習は、月に1回か2回程度のペース。

これを、すでに5年くらい続けている。

月1回くらいの活動だと、なかなか成果が形として

見えてこないもの。

それでも、「ただ続けること」が生む成果というものも、

決して小さくはないという実感がある。

5年という月日がいつの間にか、

自分ではそれほど意識しなくても何かを生み出している。

今日はメンバーとも、そんな話を少しした。

何らかの成果を出すためには、

やはり、それを止めてしまわないことだ。

いい加減でもいいから、

続けるということは大事なのだと、

メンバーと話していて思った。

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2009年6月 5日 (金)

潜在意識は「現状維持装置」!?

何事も、量を積み重ねることにより

あるとき質へと転化する。

そんなことを連日書いている。

少し視点を戻して、

継続することについて書いてみたい。

量を積み重ねるといっても、

1週間集中して大量の時間を消費し、

そのことに取り組むということではない。

やはり、少しずつ、しかし毎日積み重ねる。

そんな取り組み方が、量を質に転化させるには

必要なのだ。

そうなると、短期集中型でものすごいパワーを

かけるやりかたではなく、長期間継続することが

大切になってくる。

つまり、量を積み重ねるということは、

その取り組みを習慣化するということと

切っても切れない関係にあるのだ。

習慣化を考えるときに注意すべきことがある。

それは、「少しずつ」「ゆっくり」はじめることだ。

ゆっくり時間をかけて、簡単にできるレベルのことから

定着させていくことが大切なのだ。

はじめは誰しも、やる気が高いもの。

しかし、やる気に任せてガツガツと取り組むと、

継続することが難しくなる。

なぜなら、潜在意識が急激な変化を嫌うからだ。

潜在意識とは、人を急激な変化から守る

「現状維持装置」としての働きをするそうだ。

だから、急激な変化に反応し、その変化を生む行動を

阻止しようとしている。

私は専門的なことは詳しくないので、

あくまでイメージで捉えているだけだが、

実際、潜在意識はそのような働きをするものだと

いうことを認識しておくと、

習慣化のための取り組み方を間違えなくてすむだろう。

だから、はじめからレベルの高い取り組みを

してはいけないのだ。

継続することを第一目的に、

毎回の取り組みに対するハードルを

できるだけ下げるのだ。

潜在意識にも気づかれないほどの、

微妙な、ほんの少しの変化。

それを、少しずつ少しずつ積み上げていく。

そうすることによって、

「現状維持装置」の壁を突破できるのだ。

     ***

関連記事:

●2009年6月4日(木) 「何となくできた」で終わらせない

●2009年6月3日(水) レベルの落ちない世界

●2009年6月2日(火) 水面に出る

●2009年6月1日(月) やさしいが少々いやなこと

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2009年6月 4日 (木)

「何となくできた」で終わらせない

昨日は、楽器をマスターしていく過程を例にして

「レベルの落ちない世界」に入ることが

どんな感覚かを書いてみた。

引き続き、同じテーマで書いてみたい。

この感覚はもちろん、楽器を演奏することに

限った話ではないだろう。

スポーツを始めて、一定のレベルに達した

経験のある人であれば、

この感覚は理解できるのではないだろうか。

クラブ活動などで、来る日も来る日も

同じことを繰り返し繰り返し練習した、

そんな経験を思い出してみてほしい。

スキーをやっていた人、水泳をやっていた人。

クラブ活動で集中的に、特定の技術をトレーニング

してきた人であれば、

どんなにブランクができても、

それができない状態に戻ることは、ないだろう。

子どものころからスイミングスクールに通っていた

という人なら、大人になって10年以上もの間

泳ぐ機会がなかったとしても、

泳げなくなることは、ない。

もっとも、積み重ねた量によって、

維持できるレベルは変わってくるだろうが。

身近な例でいえば、自転車に乗ることが

良い例だと思う。

子どものころ、父母に助けてもらいながら、

補助輪なしの自転車に乗る練習をする。

そして、何とか補助輪なしでバランスを取る

感覚が身についてくる。

そうやって乗れるようになった自転車は、

一度乗れるようになってしまうと、

もう二度と、乗れない状態にはならない。

仕事においても、

同じ考え方で量を積み重ねることによって、

レベルの落ちない世界に入っていきたいものだ。

ちょっと勉強してみた、試してみた。

何となくできていそう?

そうやってマスターした気になって、

そのレベルで止まる人も多いもの。

しかし、それで終わるのではなく、

もっと別の世界が開けてくるまで

さらに積み重ねてみる。

そんな姿勢が大切なのではないか。

「何となくできた」というレベルで止まっていては、

いつまでたってもプロと呼べるだけの仕事が

できるようになっていかない。

レベルの落ちない世界にいったん入ってしまえば、

常に一定以上の仕事の質を保証できるようになる。

そして、そのレベルを維持するために

エネルギーをつぎ込まなくてもよくなるのだ。

「ちょっとできる」レベルで終わらないよう、

私も日々、磨きをかけていきたい。

     ***

関連記事:

●2009年6月3日(水) レベルの落ちない世界

●2009年6月2日(火) 水面に出る

●2009年6月1日(月) やさしいが少々いやなこと

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2009年6月 3日 (水)

レベルの落ちない世界

ものごとを積み重ねることで、

量が質に転化する。

そうすると、今までとはまったく別の世界が

見えてくる。

昨日書いた「水面に出る」というのは

このような意味だった。

今までとまったく違う世界とは、

どのようなことだろうか?

ひとことでいえば、

「レベルの落ちない世界」に

入ることができることだろうか。

量を積み重ねることといえば、

私の場合は楽器の練習をイメージすると

一番ピンとくる。

たとえば、ピアノの演奏を聴いていて、

とても気に入ったフレーズがあったので

それを自分のピアノで練習してみる。

聴いているのとちがい、自分で演奏してみると

意外と難しい。

なかなかすぐにはマスターできそうもない。

だから、最初はゆっくりと、

繰り返し繰り返し練習する。

そして、指が思い通りに動くようになったら

少しずつ、スピードを上げていく。

そうやって、楽器の演奏をマスターする。

それを、次の日も、また次の日も、

指が忘れないように訓練し続けるのだ。

そのようなことを繰り返していると、

あるとき「レベルの落ちない世界」に

入っている。

「レベルの落ちない世界」に入ると、

練習をしなくなっても、逆戻りしなくなる。

練習量が少ないうちに

積み重ねを中断してしまうと、

すぐに弾けなくなってしまうが、

量が質に転化した世界に入ると、

弾けない状態には戻らなくなるのだ。

つまり、それほど意識して頑張らなくても、

一定の質は保てるレベルに達するということ。

ものごとを積み重ねるなら、

同じようにがんばるのなら、

少なくとも、この世界に入るまでは

継続していきたいものだ。

     ***

関連記事:

●2009年6月1日(月) やさしいが少々いやなこと

●2009年6月2日(火) 水面に出る

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2009年6月 2日 (火)

水面に出る

何か1つのものごとをマスターしようとするとき、

最初から質を求めず、まずは量を積み重ねる。

その姿勢が大切だと、私自身は考えており、

ブログ記事でもその考えを書くことがある。

この考え方を、面白い例えで表現している

本があったので、取り上げてみたい。

『あたりまえのことをバカになってちゃんとやる』
(小宮慶一著/サンマーク出版、2009年4月)

※以下、手持ちのメモからの引用なので、

 書籍からの正確な表現ではない。

「仕事が半人前の最初のうちは、みな水中にいる。

少しずつ階段を上っていき、一人前になると、

だんだん水面に近づいていく。

そしてあるとき、一段上ると、突然、目が水中からでる。

すると、いままで見ていたのとまるで違う世界が、

目の前に広がる。

水面にでることは一人前を越えて、一流のレベルに達すること。

そこまでがんばらないといけない」

いきなり質を求めて何かを始めてもダメで、

まずは成果を求めずにひたすら量をこなすことが

必要なのだ。

量をこなすというのは、

「5回やってみたけど、うまくいきませんでした」

などという世界ではない。

その程度では積み重ねられるものがない。

積み重ねに効果があると、感じ始めるまでに

何十回を積み重ねる必要があるだろう。

本当の積み重ねとは、何百回、何千回という世界。

それくらい量の積み重ねがあって初めて、

何かが積み上がってきた感じがする。

そしてあるとき、その積み重ねが質に転化する。

「水面に出る」という表現は、

まさにこの、「量が質に転化する」瞬間を

言っているのだ。

そして、このような積み重ねをしていくためには、

昨日の記事に書いたような

「継続すること」が不可欠になってくるのである。

     ***

関連記事:

●2009年6月1日(月) やさしいが少々いやなこと

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2009年6月 1日 (月)

やさしいが少々いやなこと

本日は、あまり時間もないので短めにて。

昨日までとはテーマを少し変えて、

「継続」することについて書いてみたい。

最近読んだ本に

「自分にいいことは、何でもやりなさい!」
(新渡戸稲造著/三笠書房、2009年4月)

というのがある。

この中で、継続することについて

ちょっと面白いと思うような書き方をされていたので

取り上げてみたい。

「まず『やさしいが少々いやなこと』を毎日続ける」

ということが、一芸に通ずるための

修養方法として書かれている。

「やさしい」というのは、物事を始めて

習慣化するためのコツとして納得できるが、

「少々いやなこと」という考え方は

私にはなかったので、ちょっと面白いと感じたのだ。

本文から少し引用してみる。

「いわゆるものの極意というのは、

すべてに共通するものでありそうだ。

だから、発心したならば、ただ一筋に

まい進するのである。

中止せずにたゆまずに進んでとまらぬようにする。

途中でしょうがができたにしてもこれを排除し、

また倒れても起き上がって進み、

そうして最後に極意に達するのである。

一事の極意に達しさえすれば、他の諸芸にも

おのずから通達し得る」

要するに、何事も、止めなければ達成できる、

というところだろうか。

「ものの極意」というのは「継続すること」

を指しているのだろう。

我々は、一念発起して何かを始めようとすると、

最初からやる気を出しすぎて、

ちょっと難しいこと、ハードルの高いことを

目指してしまいがちである。

けれど、本当に大切なのは継続すること。

継続さえできれば、ほぼ成功なのだ。

やることの難易度は問題ではない。

だから、何かを始めようとするとき、

我々は継続することを頭において、

もっと意識的にハードルを下げることを

考えるべきだろう。

「やさしいが少々いやなこと」

いつもより少しだけ早起きするとか、

ほんの5分ほどでも運動をするとか、

そのようなこと。

それも、毎日続けていると

いわゆる「精神修養」になるのだろう。

それが自信につながり、

心のあり方が変わるきっかけになる。

自分をちょっと変えてみたい、

そんな気持ちがあるなら、

頭でいろいろ考えているよりも、

ちょっとした具体的な行動、つまり、

「やさしいが少々いやなこと」を継続してみるのが

いいかもしれない。

そのことが思考習慣を変え、思考習慣の変化が

行動習慣をも変える。

そんな好循環を生むきっかけとなるに違いない。

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